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2011-01-30 Sun 00:00
昨日(1/28)の朝のNHK「おはよう日本」での特集2011暮らしのかたち(2)のテーマは「若者に人気 “多世代ホームシェア”」だった。血縁関係のない、世代も様々な人たちが、部屋は個室だが食事その他の生活の場面を共同で暮らすタイプの住まいで、若い人たちの感想は「人間関係が煩わしいかと心配していたがそんな事は無かった」「近くに大人がいるという安心感がある」などだった。
これって下宿じゃないかと思ったときに、森本健成キャスターが「昔はホームドラマでよく出てきましたよね」とコメント。まさに私もそれを思っていた。森本氏と私の頭の中にはきっと同じドラマが浮かんでいたのだと思う。 『3丁目4番地』:森光子が下宿屋の主人、浅丘ルリ子の役は何だったのだろうか(長女だったらしい)、下宿人は石坂浩二、原田芳雄、藤村俊二、寺尾聰、黒沢久雄、、、。三遊亭円生が古時計(ナレーション)と記憶していたのだが、ネットで見ると嵐寛寿郎だった(40年来のおもこと判明)。ちょっと暗めの電灯の下、いつも大きな一つテーブルで皆がいっしょに食事をしている、それを柱の古時計が見下ろしている場面が印象的。ほとんどのエピソードは忘れてしまったが、気象庁勤務の原田芳雄扮する六さんが夜中にごそごそやっているのを爆弾でも製造しているのではないかと不審に思った他の住人たちが(時代を感じさせる設定だなぁ)、天井裏に頭を突っ込んで何かをしている現場を取り押さえると、そこには見事な鉄道模型が敷かれていたという他愛ないもの。主題歌はビリーバンバン「さよならをするために」(石坂浩二作詞、坂田晃一作曲)。『2丁目3番地』の続編として1972年1月から4月の日本テレビ土曜ドラマで放映。私は中学3年の冬で、下宿生活とか研究機関職員に憧れを持った。[写真は「何気ない日々の出来事」からお借りした] →参考:「華麗なる日活映画の世界」の「浅丘ルリ子さんの主なドラマ出演作品」 今夜の観測:ε Aur3.7等、RX Lep5.6等、U Mon7.2等、W Ori6.0等。 |
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2010-02-16 Tue 00:30
バンクーバー冬季オリンピックが始まった。スポーツに興味があるわけではないし、とくに冬季オリンピックは経済格差の展示会みたいだし、ナショナリズムの押しつけも鬱陶しく、積極的に見ることはほとんどない。そんな中で、唯一見たい競技はアルペン種目だ。中学3年の春、札幌オリンピックで初めて目にした冬季競技、それも女子アルペンは天文少年の目にも鮮烈な光を投じた。 覚えているだろうか、スイスの弾丸娘マリテレーゼ・ナディヒ(Marie-Theres NADIG:→Wiki翻訳)。彗星の様に登場し、女子滑降、大回転と連覇。三冠の掛かった回転は失権したものの、ポチャリ体型、林檎のほっぺ、爽やか笑顔がとても印象的な17歳だった。ネットで検索したら健在でスイスのFlumserbergというスキー場でスキー店を経営しているらしい。アルペン種目はウィンタースポーツの華のはずだが、日本選手の活躍があまり期待されていない種目のためニュースではほとんど取り上げられないのが残念だ。それでも動画はここで見られるのがありがたい。(→gorin.jp) |
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2009-10-06 Tue 00:14
この前、高校時代に書き始めた「読書ノート」のことを書いたが、それよりも前の中学3年の春にも担任から大学ノート1冊を渡され「歩みのノート」を書かされていた[左写真]。卒業を控えた3年生の今の自分、将来の自分をみつめてみなさいという趣旨のプリントが添えられている。 担任は毎週ノートを読んで、それに励ましやアドバイスの短いコメントを付してくれた。こうしてみるとこの中学3年のときにすでに後の「読書ノート」のスタイルは方向付けられていたとも言える。ノートの裏表紙にはNikon 8cmのこんな絵が、、、[右写真]。当時の中学生には手の届かない憧れの望遠鏡だったからなぁ。 「将来の夢」について書いた文章を読み返して笑ってしまった。天文学は勉強したいが天文学者になろうとは思わないとか、どんな生活を送るようになっても「星」とのつきあいはやめたくないとか、天体望遠鏡メーカーに入って望遠鏡を普及させ天文への関心を高め公害や光害を許さない社会を作りたいとか、やりたいことがあまりに多すぎてこまるとか、書きたい放題書いている。当時は星だけでなくギターにも夢中だったのでこんなイラストまで描いていた。よく見るとこれはTS-50+NikonF+Nikkor200mmF4だ。[左写真]。そのときの担任は恰幅の良いタヌキというあだ名の工藤敦雄先生。ちょっと怖い先生ではあったが、生徒を信頼してくれているのが分かる、生徒側からも信頼できる筋の通った先生だった。工藤先生とはいまも連絡を取っている。先生はベテランであったとは言え、私達の世代は本当に手をかけて育ててもらったと思う。と同時に当時は先生にもゆとりがあったのだと感じられる。 |
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2009-09-24 Thu 00:05
この前晏次郎さんが「望遠鏡と共に(一)」の中で中学生時代を振り返って、「私は本が好きで目に付く本を次から次で財布はいつも空っぽ状態。」と書かれていた。私が本に夢中になったのは高校時代、興味の赴くままなんでもかんでも買い漁り読み漁っていた。それでちょっと思い出した。
私が本好きになるきっかけを作ってくれたのは高校2年のときの現国の非常勤講師○○先生。当時はおばちゃんに見えたが今思うと20代後半くらいで若かったのだと思う。小柄でぽちゃっとした地味な先生だった。その○○先生から「読書ノートを作ってみなさい」と課題が出た。1冊ノートを買ってきて、授業で読んだ本や自分で買って読んだ本についてタイトルと感じたことを記すように、学期末には提出させると言う。やれやれ面倒くさいと思って書き始めたが、1回提出があった後、2度目以降の提出は無かったのでやめたければそこでやめても良かった。ところが最初こそ強制されたわけだが、実は瞬く間に嵌ってしまい、本を読んで、その読後感を書くという一連の作業を経たときに読書が完結するようにさえ感じられるようになってしまった。そのうちに記す内容は読書の範囲を大きく逸脱し、読書ノートの白いページは自分の心と対話する場になって行った。 十代後半にたくさんの本を読んで、たとえ妄想と言われようといろいろなことを考える時間を持てたことはその後の自分の財産になったと感じている。国語が嫌いで先生のお名前も忘れてしまうような不真面目な生徒だったが、その○○先生には本当に大きな恩を感じている。で、16歳春から25歳の夏まで書き綴った読書ノート、、、今も残っていた。 |
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2009-05-18 Mon 00:50
水戸芸術館広場での劇団唐組講演を見てきた。お題は『黒手帳に頬紅を』。通っていた高校の裏門を出たところに生徒たちがバカパンと呼んでいたパン屋があり、その隣に唐十郎の状況劇場稽古場はあった。唐や李麗仙その他の役者たちがときどき二階のデッキから世間を眺めていたが、バカパンで買い物をしながら私たちは彼らを下から眺めていた。 そんな近しさもあり唐十郎の戯曲は高校時代にたくさん読んだが、あれから35年、芝居を見るのは今回が初めて。話の筋?あるようなないような、説明できませ~ん。私にとっては心の同窓会でも、これまでなんの接点も無かったヨメさんには退屈だったらしい。[右写真:芝居が跳ねた後の紅テント]【関連サイト】劇団唐組についてはこちらを→「唐ファン」 |
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2008-09-20 Sat 20:21
小中学生の頃、「趣味は天体観測」と言ったり言われたりするのが嫌だった。天体望遠鏡で星を見たり写真を撮ったりはするけれど、それは観測ではないと思っていたからだ。「観測」と言うからには科学的データの収集でなくてはならないと子供ながらに厳密に分けて考えていたようだ。
![]() 現在細々とやっている変光星観測。「観測」に値する科学的データを収集・提供できているか、常に自分に問いかけつつ夜空を見上げている(つもり)。 全然別の話題だが、晏次郎さんの最新記事「こんな時の為に」で我がTS-65Pなど「チビ機材」が復権しているのが実はこっそり嬉しかったりして。 |
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2008-09-06 Sat 21:07
カタログといえば、子供の頃はカタログ少年だった。『月刊天文ガイド』そのものがカタログみたいなものだったが、メーカーや機材会社へも郵送でカタログを請求した。ほとんどが有料で切手代用可だったので、家の買い置き切手がどんどん無くなった。そのうちに、望遠鏡機材のカタログが次々に送られて来て親にバレて叱られた。
昭和40年代の望遠鏡カタログはかなり集めたがそれもすべて今は無い。現在所有する最も古いものは、まだ天文復帰前の空白時代、1994年頃に高橋製作所から取り寄せた数冊。中井さんお勧めのTeegul-100もその中にある。そうそう天体望遠鏡カタログといえばガラクマさんの『昔欲しかった天体望遠鏡』>「レトロ望遠鏡資料館」がすばらしい充実度。懐かしいカタログが展示されている。 |
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2008-03-05 Wed 00:30
先日、実家へ行ったときの話の中に足立光学のことをちらっと書いた(→3月3日)。子供の頃、自宅からほど近い境浄水場(武蔵野市)の近く、境新道を挟んですぐ西側の住宅街の一画に「足立光学レンズ製作所」という望遠鏡製作会社があった。足立英一氏は既に亡くなられ今はドームも無くなった。しかし、今でもこの道を通ると必ず足立光学のドームがあったあたりを見上げてしまう。昭和40年代、住宅街の中に天体望遠鏡のドームがあるのはかなり異様な風景だった。『天ガ』の広告で反射鏡の製作所であると分かったが、小学生の小遣いで買える製品でなかったことから、買う気もないのに訪ねて行く理由が見つからなくて、自宅からわずかの距離であったにもかかわらず行かず仕舞だった。小学生がおずおずと訪ねて行くだけで十分だったと思う。今になってみると躊躇したことが悔やまれる。 上の写真は旧足立光学付近の昭和59年航空写真で、この中に写っているのは確かだが、ここという場所が特定できない。ご記憶の方はお知らせいただけるとありがたい。 [追記:その後、斜光線さんに頂いた情報から所在地を確定。上の航空写真に追加した。] 今夜の観測:曇り予報だったので期待せずに夕食後空を見上げたら星が見えた。急いで外へ出たがやはり見えたのはU Mon5.8等だけ。風はあるがあまり寒く感じなくなった。春が近い。 |
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2008-02-02 Sat 23:54
4回もこのネタではみなさん食傷気味のはず。これは自分用のメモなので、先日コメントのレスに書いたのとほぼ同じ内容です。で、以下はスルーして下さい。
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2008-01-27 Sun 00:08
37年前の中学3年の夏休みに一人関西方面を旅したときの旅行記の第3弾。ただし、今回はタイトルの明石天文科学館ではない。[→その1、その2]
この旅行記を読み返すまで忘れていたが、大阪府と奈良県の県境、生駒山頂の宇宙科学館にも行ったのだった。ただし、こちらはかなり面白くなかったようで感想は散々。「ぜんぜんつまらなかった。子供の遊び場である」とか「宇宙をもっと深くつい求したいなぁと思う僕の行く所ではなかった」などと偉そうに書いているのには我が事ながら笑ってしまった。そして、私の感想が象徴していると言うべきか、同館は現在では閉館になっているそうだ。 |
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2008-01-24 Thu 00:11
東京に住んでいた中学3年の夏休み、一人旅で明石天文科学館などを訪問したときの旅行記第2弾。[→その1]
最近の明石市立天文科学館と当時の写真とを比べると、「市立」の有無とか時計とその周辺の文字の感じ以外はあまり変わっていないように見える。阪神淡路大震災でかなりの被害を被り3年間閉館されて修復がなされたらしいが、外観はほとんど変わっていないかのようだ。実はそうではなかったようだが、それについての答えはここに書かれていた。![]() 左の写真は館の外観と展示の様子を紹介するページ。71年は火星大接近の年で火星関係の展示が多かったと書いてある。あぁ、そうなのだ71年というは鈴木壽壽子さん(『星のふるさと』著者)が四日市コンビナートのフレアスタックの炎を透してわずか6cmの望遠鏡で精細な火星スケッチを描いていたまさにその時だったのだ。 当時Webとかホームページとかいう概念は無かったが、なんだか今と同じような発想のものを作っていたと気づく。中学3年生の幼稚な文章で恥ずかしいが、「震災前の資料で貴重」とふくださんに言われたので公開に踏み切ることにした[4枚の写真はクリックで拡大]。これを読んで思い出したが、別の科学館へも行っていた。というわけで、さらにつづく、、、 |
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2008-01-21 Mon 00:13
東亜天文学会の機関誌『天界』No.992(2008年1月号)に明石市立天文科学館の紹介が載っていた。私も中学生の時に行ったことがある。そのときの旅行記がどこかに残っているはず。そこで押入の「想いで箱」の中を探してみた。
あったあった。東京武蔵野市に住んでいた中学3年の夏休み、大阪の祖父の家に泊まって京阪神周辺を回ったときのことを、A4スケッチブックに文章と写真で綴った『美しい都71』と題する旅行記。表紙が薬師寺東塔、裏表紙は明石天文科学館だ。時は1971年、国鉄の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンが真っ盛りで、鉄道好きに限らず周遊券やミニ周遊券を持って全国の駅のスタンプ集めが流行っていた時代だ。 私はその年の春の修学旅行のときにコース違いで見られなかった奈良の薬師寺東塔(写真右側)を見たくて、夏休みの最後の5日間を利用して京阪神ミニ周遊券を持って初めての一人旅に出た。 その頃の薬師寺といえば、消失していた西塔と金堂を再建するために、高田好胤管長が資金集めに全国を飛び回っていた時代である。私は美術の先生の影響からか、お寺の建造物や仏像を見たがるへんな中学生になっていた。 この5日間の旅の1日が明石天文科学館の見学だった。 つづく、、、 |
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2007-12-03 Mon 01:21
私が最初に星を見たのは40年ほど前だが、団地に住んでいたため家の周囲は街灯だらけで、常に満月の夜のような明るさだった。そんな環境だったから肉眼で見えるのはせいぜい4等星まで。だからガイド撮影でなんとかフィルム上に7等星、8等星の星像を記録できただけでも何ものにも代え難い喜びをもたらしてくれた。
kussiさんがご自分の掲示板(No.1177)に1970年頃の写真と思い出話を書かれていたが、同世代なので私にも懐かしい。「接眼レンズにクモの糸を張って明視野装置と鏡筒に付ける雲台を自作して、手動ガイドでたくさん撮影していました。懐かしいです。」とあるが、私もセメダインの糸で十字線を張って明視野装置を作った。コントローラーは石鹸箱。 その頃のことを考えると星空にしろ機材にしろ今はなんと贅沢な星見をしていることかと思う。 今夜の観望:夕食後取り合えずホームズ彗星の撮影とミラの目測のみ済ませてから地元の同好会の例会へ参加。ときおり薄雲や靄のかかるコンディションだったがシーイングが良く火星がきれい。帰宅後はタットル彗星。写っているのかは未確認(下の写真)。![]() |
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2007-11-30 Fri 00:47
やぬしさんが「ボケフィルターを使って明るい星を目立たせ」たというおおいぬ座の写真をアップされた。その星のボケ具合が昔のことを思い出させた。FujiのXrayフィルムの写りに似ているのだ。そのことをコメントしたところ「わっわっ!Xレイ、懐かしい名前~」とやぬしさんに言われてさらに思い出すことがあった。
やぬしさんも言われるようにKodakのTryXは確かに高かったので新宿のヨドバシカメラで割安な100フィート缶を買ってきてパトローネへ巻いて使った。パトローネへ巻き取る専用の小道具もあった。35mmのXrayは缶入りしかなかったはず(30フィートだったかな)。星野写真は団地の明るい空の下で撮らざるを得なかったので、Xrayのぼんやりした柔らかい写りには馴染めずTryXばかり使った。印画紙もコントラストの強い三菱のGEKKOV4を常用。今となってはなんのこっちゃと言われそうな話題だ。 |
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2007-10-09 Tue 00:50
今夜は曇りなので昔のことなど、、、。で、星を見始めた頃、すなわち小学校高学年10~12歳の頃どんなことに興味を持っていたのか思い出してみた。
・少年野球(へたくそだけれど楽しかった)・カブスカウトその後ボーイスカウトの活動(最初に取得したのが天文章だった) ・ウルトラQやウルトラマンと怪獣(ただし熱中したのは初代ウルトラマンまで) ・グループサウンズ(ブルーコメッツに始まり国内外数多くのグループに熱を上げた。iTSで最初に買ったのが懐かしいブルコメの『何処へ』) ・ギター(あの世相、自分でも弾きたくなるのは当然) ・マンガ(石森章太郎『サイボーグ009』の大団円に興奮し、手塚治虫『火の鳥 黎明編』に多面的な歴史の見方と宇宙に連なっている自分という視点を与えられた) ・天体 この支離滅裂とした興味の対象、大人的には理解し難い部分もあるが、当時の自分はどれにも均等に時間を割いていた。当時から随分と気の多い子供だったわけだ。 |
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2007-09-29 Sat 00:08
このまえ青木君の望遠鏡に書いた8cm望遠鏡組み立てキットはそれから数年後に実は自分もブルーチップで手に入れた。買ってもらったアクロマート6cm屈折があるにも関わらずだ。その頃一通りの天体を眺めてしまい、物足りなさを感じていたからだと思う。この組み立てキットはシングルレンズというのが引っ掛かったのだが、口径8cmもあるのだから6cmアクロマートレンズに比べれば1.8倍の集光力、分解能もグンとアップ、おそらくシングルレンズの欠点を補ってくれるに違いないと大いに期待をしていた。
途中は省略するが、やっぱりアクロマートレンズを使ってしまった眼にはシングルレンズは見ていられなかった。その上紙筒の質感は如何ともし難い。このキットは鏡筒のみなので架台や三脚は自作しなくてはならないのだが、使う予定のないこの鏡筒はその後しばらく狭い我が家の部屋の隅っこに転がされていたのだった。 [追記]組み立てキットに対する認識が変わるページがあります(やっさんの掲示板で中井さんが紹介されてました)。『コルキット・スピカによる月面スケッチ ~3000円でできる月面の散策~』すばらしいです。こういう人、尊敬します。 |
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2007-09-20 Thu 00:16
この前「青木君の望遠鏡については後日譚を」なんて書いたが、その青木君は8cm屈折望遠鏡を持っていると言っていた。ということはNikonの屈折赤道儀だろうかと想像して羨ましく思った。たとえそうでなくても口径8cm屈折は当時としては最高クラスだ。そのころ「僕も最近星を見始めて6cm屈折経緯台を買ってもらったのだけど8cmを今度見せて」と青木君に頼んだのだが、はかばかしい答えは貰えなかった。
その後も僕はしつこく頼んでいたのかもしれない。ある日望遠鏡を見せてくれると言うので青木君の家へ遊びに行った。出てきたのは、、、ブルーチップで交換した紙筒製の組み立てキットの望遠鏡だった。それを見せてもらった時僕はなんだか青木君にとても済まないことをしてしまったような気持ちになった。 昭和40年当時、私の母も近所のスーパーマーケットで買い物をしたときに貰うブルーチップをこつこつとシール帳に貯めていた。シールが貯まるとその枚数に応じてカタログに載っている様々な商品と交換して貰えた。近頃のこの手のシールに比べると交換レートはかなり高かったのだと思う。高度経済成長時代だったのだ。母は貯まったシール帳を私や弟の欲しいものに換えてくれた。小学校3、4年生の頃は野球用品をたくさん引き替えた。グローブもミットもバットもほとんどブルーチップで揃えた。確かにそのカタログの中に望遠鏡もあった。それは今で言うコルキットだったのかもしれない。『昔欲しかった天体望遠鏡』の「一式望遠鏡セット 買っちゃったもの」ページの一番最初によく似た写真がある。 この望遠鏡についてはさらに後日譚がある。 |
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2007-09-18 Tue 00:06
ふわりさんがももさんのブログにコメントしていた。「どんなに寒い思いをしても私、星見では風邪をひいたことは無いんですよね?。。。不思議?。。。」これを読んで自分の子供の頃のことを思い出した。
確かに真冬でも毎夜じっと我慢の手動ガイド数十分なんてざらだったが、やはり風邪をひいた記憶がない。そんなことで風邪をひいていては「天体観測なんかやめろ!」と小言を食らったはずだが、そういう記憶もない。きっと星見をしていると脳内から快楽物質が出ておまけに免疫増強物質も出るのだろう。夏はついでに蚊に喰われない物質も出てくれるとありがたいのだけど。 子供時代の記憶をもう一つ追加。私は子供の頃からお腹の弱い子でちょっとしたことですぐにお腹が痛くなりお便所へ駆け込むこと度々だった。ところが不思議なことに星の本を読んでいるときだけはお腹が痛くならなかった。それどころかお腹が痛くなっても『天文ガイド』を読み始めればその傷みがあっと言う間に消えてしまうほどだった。お腹が痛いのは腸の痙攣なのだろうがそれは不随意筋の動き、それが抑制されるということは『天文ガイド』が脳みそを直接コントロールしていたということか。あの頃星の雑誌や本を読んでいる時は確かに幸福だったように思う。以上、きれいなんだか汚いんだか分からない話題で済みません。 今夜の観測:昨晩同様雲は多いが案外星は見える。カシオペア座、ペガスス座、アンドロメダ座などの変光星をいくつかレパートリーに追加。その他今夜ぜひ見たかったもの、中井健二さんの掲示板で話題になっているケンブルズカスケード。約2.5度に渡って一列に星が連なっている見事な造形だ。私にはNGC1502から流れ出ているというよりも、北から飛んできた粒子が散乱して一つはNGC1502側へ、もう一つは反対側へ弾かれてさらに二又に散乱していく宇宙線のカスケードシャワーのように見えた。 |
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2007-09-12 Wed 00:43
我が霞ヶ浦地域はこの先一週間は雨また曇りで予定が埋まってますのでしばらくは観測報告は無しです、多分。しばらくの間思い出話などでお茶を濁すことになりますが、よろしくお付き合いの程を。
最初に「天体望遠鏡」を身近に感じたのは小学校4年生の頃だったと思う。母が「青木君は天体望遠鏡を持っていて、毎月渋谷のプラネタリウムに通っているそうよ」とクラスメートの話をした。そのときの母の頭の中には「青木君はプラネタリウムや天体望遠鏡で自発的に理科の勉強をしている」というイメージがあったのだと思う。そして当時流行り始めていたグループサウンズの音楽ばかり歌っている息子に青木君の爪の垢でも煎じて飲ませたい気分だったのかもしれない。 青木君の話を聞いたからというわけではなかったと思うがそれからほどなくして自分も星に興味を持つようになり私の天文履歴書に書いたように小学5年のクリスマスに天体望遠鏡を買ってもらえることになった。最初の望遠鏡はカートン光学の6cm屈折経緯台で吉祥寺駅近くの眼鏡屋で買った。これは親の予算で決めた機種だったが、最近話題になっている買ってはいけない系の望遠鏡に比べると品質は良かったように思う。その望遠鏡は既に処分して今は無いが、「古スコ広場」という掲示板のNo.2256にとてもよく似た望遠鏡が載っている。ただし、私の経緯台には微動装置は無かった。青木君の望遠鏡については後日譚を近々。 |
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2007-06-22 Fri 06:03
テルスター(Telstar)というのは世界で始めて運行された能動通信衛星で、AT&Tベル研究所によって開発され、1962年7月にNASAによって打ち上げられた。直径86cm、重さ77kgの球形の衛星で、157分(2時間37分)で地球を一周、軌道傾斜角は45度で、楕円軌道を描いて周回した。一度の接続で20分程度の通信を行うことが可能で、使用していた周波数帯域は、アップリンクが6GHz、ダウンリンクが4GHzとなっており、この周波数は後の通信衛星にも広く採用された。[IT用語辞典Binaryの項目「テルスター」より]この人工衛星をモチーフに書かれたのだと思うが、『Telstar』という曲もあった。私は中学時代にThe Venturesの演奏で聞いたことがあるが、大円の軌跡を描いて夜空を横切っていく風景が目に浮かぶようなインスツルメントで今でもときどき口ずさむことがある。この曲についてのエピソードはこちら。てなことを書いていたら久しぶりに聞きたくなってiTunesStoreからダウンロードしてしまった。演奏の最後にプシュー!という効果音が入っているのはロケットの打ち上げをイメージしているんだろうが、打ち上げというよりもパンクの音みたいなんだなぁ。 |
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2007-05-06 Sun 12:17
雨なので昔のことなど。
1970年頃だろうか、アルミで作るフレーム式のコンパクトな自作反射望遠鏡の紹介記事が『月刊天文ガイド』に載った。中学生だった自分は当時カートン光学60mm屈折を使っていたが、もう少し口径の大きなそしてコンパクトな反射望遠鏡も欲しかった。そうはいっても既製品を買うだけの資金は無かったのでこの自作記事には大いに興味を惹かれた。しかし、解説記事の内容にどうしても理解できない部分があったので執筆者に質問を送った(質問受付のご本人の住所が記載されていた)。数週間後小さな文字がぎっしり詰まった詳細な回答の書かれた葉書が一枚送られてきた。その出だしの部分には、「人に質問をするときには切手を貼った返信用の封筒を同封するのが礼儀です」と書かれていた。それを読んだとき、私は顔から火が出るような恥ずさを感じたことを今でも昨日のことのように覚えている。でも、この方のご注意のおかげでその後2度と同じ失敗をせずに済んでいる。今ではお名前も忘れてしまったが、お元気であれば還暦を迎えられるお歳ではないかと思う。いかがされているだろうか。 |
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2007-04-07 Sat 07:12
小学校6年生の時に父に2眼レフ(プリモフレックス)を借りて写真を撮り始めた。フィルムはいわゆるブローニー(6x6版)というやつで、子どもにとってはとにかくフィルム代も現像代もばかにならない。モノクロフィルムであれば現像タンクで簡単に現像ができることは雑誌などから知識を得ていた。そこで、現像をしてみたいことを父に話すと反対されてしまった。なんでも、父も若い頃フィルム現像をしようと試みたらしいのだ。当時は暗室の中でバットを使ってやる方法、上手くいかなかったらしい。それで、暗室もないのに現像ができるはずないと一蹴に附されたわけだ。翌年、中学生になって友人の兄が現像タンクやダークバックを貸してくれて自分にも現像ができることを証明して見せた。これで父も納得してくれて、晴れて自宅でD.P.E.ができるようになったのでした。 |
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2007-04-03 Tue 00:00
37年前の1970年春、ベネット彗星が光度を上げたとき、中学1年生だった私はその情報にまったく気づかずこの20世紀最後の大彗星を見損なってしまった。翌月の『天文ガイド』に掲載された各地で捉えられたすばらしい彗星の写真を眺めながら、なんで気づけなかったものかと情けない思いをした。現在のように手軽に情報を得られるネットがなかった頃の中学生の情報収集能力としてはこの程度の取りこぼしは致し方なかったかもしれないが。後で知ったことだが「エイコー宇宙友の会」がオプションとして発行していた葉書情報の会員になっていればベネット彗星接近の速報を事前に受け取れていた。再びこのようなイベントを見落とさないようにとさっそくそのサービスを申し込んだのだが、その後1年間葉書情報を必要とする天文現象は無く、再度情けない気分を味わうことになった。ベネット彗星の名を耳にする度に、写真の中でしか知らない美しい彗星の姿とともにこの情けない思い出が懐かしく蘇る。[写真はAstroArtsの星ナビ思い出の彗星フォトコンテストのベネット彗星のページに掲載されている田代貞さんが1970年3月27日 5時0分に静岡県で撮影されたもの] |
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2007-03-18 Sun 00:00
小学校、中学校、高校と続いた天文の趣味だったが、7年間に星に関する話をした友人は数えるほど、そのほとんどの期間ひとりでやっていたことになる。一人目は中学校の同学年で近くに住む飯屋の子がミザールの10cm反射赤道儀を持っているのを知り何回か覗かせてもらったが、いっしょに何か観測をしようという話にはとうとうならなかった。二人目は中学の物理科学部の1年先輩。天文に詳しく星座名とその略号を全部覚えているのに感心した。それでも部活で行った観測会の記憶は1回しかない。3人目と4人目は高校1年の時にジャコビニ流星雨を見に行った二人。話題を共有する友人を欲しいと感じないくらいに満足感・充実感のある時間を過ごしていたということになるのだろうか。
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2007-03-02 Fri 00:38
小学校5年の時から天体に興味をもっていたのに、東京多摩の団地暮らしだったということもあって、天の川を見る機会はずっと無かった。初めて自分の目で見たのは高校1年の夏休み、岡山県北部の山間地にあった親戚宅に数週間滞在させてもらって天体写真を撮りに行った時だった。庭先へ出て空を見上げるとまさに満天の星。夏の銀河が頭上を流れていた。そして短時間露出のガイド撮影で美しい星野写真を撮すことができた。翌年の夏もここで数週間を天体写真撮影のために過ごした。しかし、この夏が終わり秋が過ぎ高校3年生になりそして受験が近づくに連れて天文への情熱が急速に冷めていってしまった。これが自分の少年時代の終わりだったように思う。
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2007-02-21 Wed 00:00
小学校5,6年生で星を見始めた頃「エイコー宇宙友の会」に入った。月に一回数ページの会報が送られて来る他はイベントに会員料金で参加できる特典があった。しかし一度も参加しなかったので、いま思うと入会するほどのことは無かったなと感じる。
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『3丁目4番地』:森光子が下宿屋の主人、浅丘ルリ子の役は何だったのだろうか(長女だったらしい)、下宿人は石坂浩二、原田芳雄、藤村俊二、寺尾聰、黒沢久雄、、、。三遊亭円生が古時計(ナレーション)と記憶していたのだが、ネットで見ると嵐寛寿郎だった(40年来のおもこと判明)。ちょっと暗めの電灯の下、いつも大きな一つテーブルで皆がいっしょに食事をしている、それを柱の古時計が見下ろしている場面が印象的。ほとんどのエピソードは忘れてしまったが、気象庁勤務の原田芳雄扮する六さんが夜中にごそごそやっているのを爆弾でも製造しているのではないかと不審に思った他の住人たちが(時代を感じさせる設定だなぁ)、天井裏に頭を突っ込んで何かをしている現場を取り押さえると、そこには見事な鉄道模型が敷かれていたという他愛ないもの。主題歌はビリーバンバン「さよならをするために」(石坂浩二作詞、坂田晃一作曲)。『2丁目3番地』の続編として1972年1月から4月の日本テレビ土曜ドラマで放映。私は中学3年の冬で、下宿生活とか研究機関職員に憧れを持った。


























37年前の1970年春、ベネット彗星が光度を上げたとき、中学1年生だった私はその情報にまったく気づかずこの20世紀最後の大彗星を見損なってしまった。翌月の『天文ガイド』に掲載された各地で捉えられたすばらしい彗星の写真を眺めながら、なんで気づけなかったものかと情けない思いをした。現在のように手軽に情報を得られるネットがなかった頃の中学生の情報収集能力としてはこの程度の取りこぼしは致し方なかったかもしれないが。後で知ったことだが