33年の時間を巻き戻し天文少年ならぬ天文壮年へ再入門。隊員1名、200mm、65mmの望遠鏡と双眼鏡で星空を楽しんでいます!
人生の決断に力を貸してくれた1冊の本
2017-06-15 Thu 00:00
1706031.jpg書類の片付けをしていると懐かしい物が出てきてつい手が止まってしまう。これは写研時代に書いた社内論文と、参考文献に使った当時(どうやら現在でも)ソフトマンのバイブルだった『ソフトウェア作法』。

カーニハン&プローガー『ソフトウェア作法』
       木村泉訳 共立出版 3800円 1981年

論文の方は名ばかりで「ソフトウェア開発上の問題点」と題したレポート。メンバー内で目標が共有されていないプロジェクトではソフトウェア開発基盤がいかに脆弱にならざるを得ないかを示し、改善への提案を書いてみた。などと言うともっともらしいが、自分の力不足を棚に上げて上司の企画力を批判しているだけとも言える。その時すでに辞職するつもりだったので、所属するプロジェクトの長への批判を思いっきり書いてしまった。

『ソフトウェア作法』は、ここにいても将来性のある正統派の開発環境は望めそうにないと、早々と見切りをつけさせてくれた、今にして思うと人生の決断に力を貸してくれた本だったことになる。
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『だれも知らない小さな国』の佐藤さとる氏が亡くなった
2017-02-19 Sun 00:00
『だれも知らない小さな国』の佐藤さとる氏が亡くなったそうだ。1928年生まれで享年88歳。

 →佐藤さとる 公式WEB

1702172.jpg昭和52年(1977)の講談社文庫本を持っている。ヨメさんと付き合い始めた頃に教えてもらって買ったもの。挿絵に色をつけたくなって、18枚全て塗り絵をした。

その中の数枚。
1702173.jpg1702174.jpg1702175.jpg
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金本正之先生との出会い(その3) 記憶に残る講義
2016-11-08 Tue 00:00
金本正之先生との出会い(その1) 接点年表
金本正之先生との出会い(その2) 資料みたいなもの数点

手元に残る資料を頼りに思い出せることは(その1)と(その2)にほぼすべて書いてしまった。あとは自分の記憶の中だけに残る幾つかのエピソードを可能な限り絞り出しておきたいと思う。

(1)発明された「天皇」:遣隋使を送るにあたり皇帝へ貢物をする周辺諸国の王の一人としてではなく、隋の皇帝と対等かそれ以上の位を示せる名称は何か、聖徳太子はここでハタとひらめいた。中国の皇帝は天から付与される権威と権力。「天」と「皇帝」をくっつけて「天皇」とすれば皇帝よりも上位。これを知った隋の皇帝、アッと驚いたがもう遅い。

(2)古代日本人の精神:『隠された十字架』を題材に、怨霊と鎮魂は日本人の心、文化、政治のいたるところに関わってきたことを例示する。

(3)茶漬けで負けた平将門:田原藤太(藤原)秀郷が将門に付かなかった理由は、茶漬けの湯を3回継ぎ足したことだとか。秀郷は将門の人物を探りに面会に行くが、茶漬けの湯を3回継ぎ足したのを見て、茶漬け一杯の湯の量も把握できない大将には将来性はないと見限ったということだ。その他秀郷の百足退治のエピソード。

(4)源平の戦い方:当時の戦は夜明け後から日没前の間に行っていた。騎馬での戦いでは、敵が自分の右側にいる場合はいくら近くにいても仕掛けられなかった。一ノ谷の戦いの段では『青葉の笛』を聞かせてくれる。

(5)源為朝のエピソード:十人張りの弓使いで左腕が右腕よりも30cm以上長かったという源為朝。かつて弓道をされていた金本先生の説明によると、和弓では矢を射る瞬間に左手首のスナップを強く効かせるため、強い弓を弾く為朝の左腕は30cm以上も長くなってしまったということらしい。

(6)鎌倉幕府の成立と中世武士社会の様相:『曽我兄弟の敵討ち』

(7)文永・弘安の役:『元寇』を歌ってくれた、、、はず。

(8)鎌倉幕府の滅亡:『鎌倉』を聞かせてくれる。

(9)南北朝の戦い:船坂山 杉坂 院庄 と隙間を空けて黒板に書き始めた。隠岐へ護送される後醍醐天皇を追ってきた児島高徳だが船坂山、杉坂では追いつけずようやく院庄で追いつくことができた。一人では如何ともし難いので、闇に紛れて後醍醐の寝ている庭へ入り桜の木に十字の漢詩「天莫空勾践、時非無范蠡」と刻む。朝起きてきた後醍醐がそれに気付き、漢詩の内容を理解し、時を得たならば必ず忠臣が助け出しに来てくれることを悟ったというエピソードが語られる。語り終えたところで 『児島高徳』を聞かせてくれる。

(10)前期日本人と後期日本人:日本人の精神構造が中世のある時期に大転換したという話。それは前期日本人/後期日本人と区別できるほどの大変化だったらしい。多くは忘れてしまったが、いま覚えているのは「善悪」、「怨霊や祟りへの畏れ」などの規範の違い。鎌倉時代頃までは前期日本人、信長や家康は後期日本人。これが行動の違いに現れているのではないだろうか。この話を聞いてからもうかれこれ30年経っているが時々思い出して歴史上の人物の行動を見るときのヒントにすることがある。
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金本正之先生との出会い(その2) 資料みたいなもの数点
2016-10-10 Mon 00:00
金本正之先生との出会い(その1) 接点年表 の続きを書いておこう。

(1)1960年
1609252.jpgこの2枚の写真は、1960年6月15日の安保反対デモの最中に国会内で警官隊による暴行で死亡した樺美智子さんの遺稿集『人しれず微笑まん』の口絵写真のもの。

『人しれず微笑まん』 樺光子編 三一書房 1960年 250円

1609251.jpg当時樺さんが学生として所属していた東大文学部国史学研究室に、金本正之先生は大学院生として所属していた。安保反対声明文の中に、お二人の署名を見つけることができる(上の写真)。1609271.pngまた、合同慰霊祭での集合写真では遺影のすぐ隣に写っているのが金本先生(左の写真)。私が出会う15年前である。出典不明だが合同慰霊祭の写真がもう一枚あった(右写真)。

(2)1975年
1609255.jpg金本正之「『茨城県史料=中世編』I・IIの存在を楽しむ -一利用者のひとり言- 」(『茨城県史研究 33』(1975年))

私がS予備学校で金本先生に出会った時、先生は茨城大学の教官をされていた。講義の中でその時代に関連する展示会が水戸の茨城県立歴史館で開かれていますよというお話を伺いさっそく見に行った。県立歴史館を訪れたそれが最初になる。その報告と感想をお話しするのをきっかけに講師控え室を訪ねて初めて先生と直にお話ししたのを覚えている。
1609253.jpg右の写真は歴史館が発行する『茨城県史料 中世編 I』とそれに関する金本先生の寄稿文が掲載されている『茨城県史研究 33』だ。左にその出だしの部分をコピーしておく。ここに出てくる『臼田文書』は県南中世史を解明するための最重要文書群の一つで、『茨城県史料 中世編 I』はいまの私にはなくてはならない史料集となっている。私が先生とお会いしていたちょうどその時期に書かれた寄稿文と史料集を、それから30年後に机の上で開くことになるとは、実に不思議な巡り合わせを感じる。そして、先生がお元気であったらお聞きしたいことが山のようにあったのだが。

(3)1975年
1609211.jpg先にご紹介した通り古いカセット箱の中には、予備校での金本先生の最終講義の録音も残っていた。

金本先生の講義は予備校が作っているテキストなどまったく使わず、とにかくその時代を理解するための重要事象について、大きな歴史の流れを縦糸に、有名な物語を横糸にして時代そのものを織り上げて見せてくれる、そういう進め方だった。一番印象に残っているのが『曽我兄弟の敵討ち』を題材にして、鎌倉幕府の成立と中世武士社会の様相を提示してくれた講義だ。大阪市大の入試にまさにその時代が出て、その問題についてはおそらく一番面白い解答を書いた一人だっただろうと自負している。その時に必ず登場していたはずの八田知家(現在の茨城県南を治めた小田氏の祖)については記憶に残っていないのが残念だ。
このような進め方の講義のため当然入試時期が近づいてきても、近・現代まで到達しない。そこでまる一日使って近現代史の長時間補講を行うことが恒例となっていた。この日だけは教務も検札を行わず、多くの学生が詰めかけ廊下まで立ち見で溢れかえり大教室は大変な熱気に包まれた。カセットテープに残っていたのは数時間に及んだ補講の中で披露されたたくさんの歌だった。曲名は以下。
 インターナショナルの歌
 船頭小唄
 籠の鳥
 東京行進曲
 昔恋しい早稲田の自由(東京行進曲の替え歌)→音声
 酒は涙か溜息か
 爆弾三勇士の歌(与謝野鉄幹/辻順治・大沼哲)
 肉弾三勇士の歌(中野力/山田耕筰)
 天国に結ぶ恋
 青年日本の歌
 駿台生希望の歌(嗚呼玉杯に花うけての替え歌)
 駿台第2校歌(=嗚呼玉杯に花受けて)
現代のように撮影、録音、録画が簡単にできる時代ではなかったので残念ながら音は聞きづらいが、これはこれで貴重な記録だろうと思っている。

(4)1988年
1609254.jpg武蔵野市成人学校『日本中世史入門』配布資料

1988年9月〜11月、武蔵野市成人学校『日本中世史入門』10回シリーズは、自宅からも近い武蔵境駅近くの市民会館を会場に開講された。市民向け講座の講師として招かれた金本先生に13年ぶりに再会できたわけだが、地域のおじさんおばさんの前で講義する先生からはS予備学校のカリスマ講師の熱気は感じられなかった。逆に言うとそれは若人へ向けて放っていた金本先生のオーラがいかに凄まじかったかの証でもあったと思う。
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金本正之先生との出会い(その1) 接点年表
2016-09-26 Mon 00:00
金本正之先生は日本中世史の研究者・教育者なので、中世城郭に興味を持つ今の自分であれば講演会や博物館講座などで話を聞く機会があっても不思議はないが、初めてお会いしたのはそれよりもはるかに早く、41年前の予備校での日本史の講義だった。国公立理系志望で日本史を選択する者はごくごく少数派で、社会科はたいてい地理か倫社か政経を選択してお茶をに濁すといったパターンだったはずだ。それでも自分が日本史を選択したのは、興味の持てない科目よりは好きな科目をやる方が精神的に楽だと考えたから。この正攻法(あるいは無謀)のおかげで金本先生に出会えたのだから何が幸いするかわからない。予備校後も含めて先生との接点はわずかなのだが、この人と出会えたおかげで自分の人生はどれだけ豊かなものになったかと感じられる、そんな人生の恩師の一人に間違いはない。

金本先生との接点年表:
(1)1975年春〜76年冬、御茶ノ水のS予備校。日本史の講義をニセ学生として聴講。
  初めて直接お話をしたのは講師控室。
(2)1976年2月、名物の8時間(だったかな?)補講。
  真冬だというのに東校舎・大教室は立ち見も多く熱気むんむんだった。
  この日ばかりは教務の検札もなく見て見ぬ振りをしてくれたようだ。
(3)1988年9月〜11月、武蔵境駅近く(自宅近く)の市民会館で武蔵野市成人学校。
  「日本中世史入門」10回聴講。S予備校時代の思い出をお話しする。
(4)1990年頃の春、東洋大学退官記念講義。
  ありがたいことに成人学校聴講者にもお知らせが来たので参上してご挨拶。

1609211.jpg先日見つけたカセット箱の中には、予備校での金本先生の最終講義の録音も残っていた。ついでにおなじラベルに名前の見える、奥井潔先生の英文学・文化論も聞き応え満点だった。大学へ行くとこういう講義に接することが出来るのかと憧れを抱かせてくれる内容だった。

その2ではこの録音を含め、手元に残る金本先生関連の資料について紹介しようと思う。
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カセット箱の中はお宝の山
2016-09-20 Tue 00:00
1609182.jpg捨ててはいないはずと思っていたが、やはり残っていた。玉手箱のように蓋を恐る恐る開けると、タモリの『タモリ(1977)』『タモリ2(1978)』『タモリ3 戦後日本歌謡史(1981)』やオールナイトニッポンの音声、スネークマンショーの『SNAKEMAN SHOW/スネークマン・ショー(1981)』『死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対!(1981)』『スネークマンショー海賊盤(1982)』や水牛楽団の『ポーランド 禁じられた歌』などのカセットテープが出てきた。さて、40年前のテープもあるがちゃんと再生できるのだろうか。
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昭和はますます遠くなりにけり
2016-07-22 Fri 00:00
永六輔が亡くなったので、これを読みながら弔いをしようと思う。

1607151.jpg『みだらまんだら』 永六輔著 え・山下勇三
            文藝春秋 1972年 540円

この本を最初に読んだのは高校の時。嶋田くんが貸してくれた。帰宅してから読む様にと念を押されたのに我慢しきれず帰りの井の頭線で読んでしまい、おかしさに笑いを堪えきれずに往生したことを思い出す。箸がこけても笑えるハイティーンの頃だったとは言え、今となっては常識的な内容に思えて抱腹絶倒できなくなってしまった精神の老化が恨めしい。この本はその後も何度か手放しては買い、また手放しては買いと、数回購入した。

『狂気の沙汰も金次第』 筒井康隆著 新潮文庫 1976年 280円

こちらは大学生の時、現在は長居競技場キンチョウスタジアムになってしまった菜の花畑の中の菊水園(荘?)というアパートにいた有本くんが貸してくれた。本文の面白さはもちろんだが、山藤章二のイラストがとにかく秀逸。ちなみに、長居公園には筒井康隆の父嘉隆氏が初代館長を務めた大阪市立自然史博物館がある。

永六輔も、野坂昭如も、小沢昭一も、井上ひさしも、そうそう大橋巨泉も亡くなり、昭和を体現していたお人方の姿がいよいよ少なくなって寂しい限り。筒井康隆、もうちょっと頑張ってくれろ。
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文字をデザインする
2016-06-21 Tue 00:00
NHKのプロフェッショナル仕事の流儀「異端の文字、街にあふれる 書体デザイナー・藤田重信」という番組を見た。

1606211.jpg書体にデザイナーがいるといってもピンとこない人は多いかもしれない。反対にポスターやチラシに使われている文字に個性があることに気づいている人もいるだろう。最近は、MacやPCで書体を選ぶときに「ヒラギノ明朝」とか「筑紫A丸ゴシック」とかを指定しながら書体デザイナーに思いを馳せる人も、、、そんな奇特な人いないか。[写真はNHKの番組紹介ページより]
 →フォントって大切だよ♪:6月13日(月)のNHK『プロフェッショナル』は、筑紫書体で有名なフォントワークス藤田重信さん

藤田氏は私よりも一つ若いが写研入社は1975年なので8年先輩になる。開発部と文字部は建物は別だし、ペーペーが仕事で文字部と関わることもなく、スーボをデザインしたスター的存在の鈴木勉氏を除いては、藤田氏についても、後に鈴木氏と字游工房を設立してヒラギノを作ることになる鳥海修氏についても知る機会はなかった。
 →『鈴木勉の本 抜粋版』
   49歳で亡くなった鈴木勉氏を追悼する内容の本

この番組は藤田氏の孤軍奮闘を描いた内容だったが、自分にとっては30数年前を思い出すきっかけの番組になった。いまだに公式ホームページを持たない株式会社写研、石井裕子社長はこの会社をお墓まで持っていくつもりなのだろうか。
 →フォントって大切だよ♪:いわゆる公式サイト(ホームページ)のない写研。会社として忘れ去られるまえに、情報の開放を――。
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ミルクを送る
2015-12-12 Sat 00:00
かなり前になるが、2012年4月14日の記事に、「子供たちにミルクを! 」というコメントに目が止まったことを書いた。そのときに出し忘れて、今年の夏に33年ぶりに影山さんに会った時にも出しそこなって、、、今夜、当時の資料が出てきたのを機会にアップしておく。

1980年当時、私は大阪での学生生活の最後の時期を過ごしていた。8月、ヨーロッパではポーランド北部のグダインスク造船所で自主管理労働組合「連帯」によるストライキが国民的な支持を得て、東欧の春の様相を呈していた。しかし、東西をソヴィエト連邦とベルリンの壁に挟まれた中での「連帯」によるポーランドの舵取りは困難に突き当たり、ソヴィエトの介入も時間の問題かと思われた矢先の1981年12月13日、ヤルゼルスキ将軍による軍事クーデターが起こり全土が戒厳令下に置かれることになった。1512111.jpgその直後の12月20日、大阪市内でポーランド映画の上映会が行われるというので見に行くことにした。後にプラネット映画資料図書館代表となる安井喜雄さんが上映会場を提供し、シネマテーク・ジャポネーズ同人の影山理さんが上映映画を提供し、フリージャーナリストの今井一さんがポーランド取材報告を行うというプログラムだった。最後にポーランドの市民を援助する活動が出来ないだろうかと言う提案があり、映画会の終わった会場に15名ほどの有志が残りその中に私もいた。それが後日「ポーランドへミルクを送る会」として発足することになる市民ボランティア組織結成の夜だった。

「どうか日本の子供たちに「安全なミルク」を供給拡散してください。」このような日が来ようとは、あの時の誰が想像しただろうか。
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『ANO・ANO』を覚えていますか
2015-01-23 Fri 00:00
1501023.jpg2015年のNHK大河ドラマは吉田松陰の妹を主人公にした『花燃ゆ』。原作はなく脚本を大島里見と宮村優子が担当するということだ。テレビドラマをほとんど見ないので知らなかったが、Wikiを見てみると宮村優子は脚本家としてけっこう売れっ子のようだ。しかし、物書きとしてのデビュー作ともいうべきあの本が挙がっていないのはなぜだろう。歴史の1ページとしてWikiにも載っていないこの1冊、いや2冊、を紹介しておこうと思う。

Wikiにも載っていないと書いたが、ネット上にある『ANO・ANO』情報としては、連載時の編集担当だった『月刊宝島』編集部の村松恒平氏のページくらいしか見つからない。「女子大生の本音」ということで一時は社会現象にまでなり映画化もされた『ANO・ANO』だが、今では覚えている人も少ないだろう。そうそう、『ANO・ANO』著者・宮村裕子は宮村優子の本名で、高校の2年下の学年ということを知ったのは卒業した後のことだ。

映画『ANO・ANO 女子大生の基礎知識』

『ANO・ANO』は女子学生の本音、特に性に関することを開けっぴろげに語ったという点で画期となった一冊だった。1980年発行だが『月刊宝島』に連載されたのはそれよりも1年ほど早い時期だろう。今ではなんでもないような内容を「開けっぴろげに」とは言いながらも相当「肩肘張って、むきになって」語っていたことが伺えて面白い。

『ANO・ANO』は性に関わる本音話の他にコラムもある。例えば、「放課後の帰り道がよく一緒になった。詩や小説やレコードの話かなんかをしながら、キャベツ畑に囲まれた田舎道のような駅への道を二人で歩いた。帰り道の思い出で印象的だったのは、駅のホームでの話。高校のある井の頭線の駅のホームはひとつしかなくて、私は吉祥寺方向への、その人は渋谷方向への電車を待っていた。」のところを読んで、井の頭線浜田山駅と通学路を懐かしむのは自分に近い世代の同窓生と確信した。
それから、『ANO・ANO II』の中では、初めて古典を習った斎藤先生の思い出を語るコラム『S先生の伊勢物語』は感動的だ。先生の風貌や「梓弓ま弓槻弓年を経て」の段を講義する風景などが眼に浮かぶ。また、同窓会で再会した初恋の彼も斎藤先生が好きだったと知って「私は、この人を好きだったということを、S先生が好きだったことと同じくらい誰かに誇りたい気がした」という下りは共感できる。私がその斎藤先生に習ったのは現国だったが、特に映画公開1年前の『デルス・ウザーラ』を題材に、文明とはについて熱く語ってくれた講義は実に迫力があったなぁ。
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大阪から音楽がやってきた
2014-12-26 Fri 00:00
1412241.jpg大阪市大時代の知り合いからオリジナルCD、DVDがたくさん届いた。38年ほど前、私は理学部学生でN田さんは文学部の院生で、歳は十ほども離れていたが、国鉄阪和線・鶴ヶ丘駅前の「天つる」の常連で、いっしょにお酒を飲むことが多かった。そのN田さんが大学教官の職を得たときは、これまでみたいに遊んでもらえなくなるという寂しさが心をよぎったものだが、あれから早36年、無事に定年を迎えられた。これからはたまに大阪へ戻るときでも、また昔のように遊んでもらえそうだ。

N田さんは軽音出身でCountry & WesternやBluegrass志向だったので、手近にギターがあると、有名な曲を聴かせてくれたり蘊蓄を語ってくれたりした。ある時、私たちが結婚すると報告した時もいっしょに飲んでいたのだが、お祝いにと「誰か故郷を思わざる」を歌ってくれた。ちょっと意外な選曲だったが、その時のことはいまでも忘れられない。

1412242.jpgそのN田さんのバンドはThe Green Mountain Tops。ライブハウスや地域の催しなどで活躍している様子が以下のブログから伝わってくる。おじさんバンド、ますます盛んだ。
 
The Green Mountain Tops

早速、全74曲iTunesに入れて車の中で聞いている。
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より遠きへ 金星へ
2014-12-14 Sun 00:00
1412141.jpg■和田城志についてもう一回書こう。『劔沢幻視行 山恋いの記』本文中にもあったが、『登山における困難とはなにか』(登山研修所友の会VOL.9文献「高所登山の実践と課題」)にもこう書いてある。「アルピニズムの呪文「より高く、より困難をめざして」(私はより遠くも含めたい)」と。「行きたいところは金星」と若かった自分やヨメさんに話してくれたのは出任せのからかいではなくこういう伏線があったのかと、35年も経ってから謎が解けた。[写真は金星探査機マゼランのデータからシミュレートされた金星の地形。こんな風景を想像していたのだろうか。]

実は前回『劔沢幻視行 山恋いの記』を紹介した同じ日、玉青さんも「世界の果てへ」という記事を書かれていた。以下はそのコメント欄からだが、玉青さんは「金星へ」についての最良の説明文を書いてくれたと感じる。「アルピニストの心に燃えるものは何なんでしょうね。 自分の能力を山を相手に試したいという、真っ当なチャレンジ精神もあるでしょうし、他人がまだ目にしたことのない光景を見たいという好奇心や、人間臭い功名心もあるのでしょうが、それらとはまたちょっと違ったところに、記事で書いたような「ひたぶるに遠くを目指す心」もあるのかなあ…という気がします。 この「遠くを目指す心」が、上で挙げたそれ以外の心理と異なるのは、「こちらの世界に戻って来れなくてもいい」と思ってしまうことで、純粋であると同時に、非常に危うさをはらんでいます。」

■『劔沢幻視行 山恋いの記』のところどころに挿入されている炊爨道具や草花の自筆スケッチに添えられているおっぱい型の「Wada」サイン。懐かしいと感じたのは、ダイコー産業に届いていた絵葉書の署名が思い出されたからだ。ブロード・ピークでポーランド人のWandaにあげた山のスケッチのサインもこのおっぱいだったんだ。その彼女もカンチェンジュンガのアタックで行方不明になってしまったという。

■65歳になった和田さんは異次元から戻って同次元の人となり、いまは下界を歩いているようだ。「道路はあるが道がなくなった」、道無き道を歩き続けてきた登山家にとって下界は実に住みにくいところなのだろうと思う。

知名度は低いが峻険!7000m峰
ランタン・リルンはこんな山。初登頂記録を残した山ではあっても和田さんにとって恋する山ではないようだ。しかし、私にとっては、チョモランマ-マナスル-ランタン・リルンとヒマラヤで3番目に有名なピークとなる。

■因みに、11月22日の記事に書いた「ナニワの将棋少年」和田柔大くんのおじいさんというのはこの和田さんのことだ。
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「ランタン・リルン」 忘れ得ぬ山の名
2014-12-06 Sat 00:00
1411211.jpg『劔沢幻視行 山恋いの記』 和田城志著
          東京新聞 1700円 2014年

登山に縁は無いが「星戀」ならぬ「山恋の記」を読んだ。著者の和田城志さんと会ったのは35、6年前に遡る。

「天候が回復せず、シェルパの祈りが朝からずっと続いています」と書かれた絵葉書がダイコー産業に届いていた。阪和線鶴ヶ丘駅界隈には馴染みの居酒屋『天つる』や当時和田さんが勤めていたダイコー産業があって、何度かお酒をご一緒させてもらった。それは和田さんが30歳の頃で、大阪市大隊として未踏峰ランタン・リルン初登頂の少し後のことだ。私の記憶の中の和田さんは、本書63頁の大学2回生(21歳頃か)の写真の面影に近いロングヘアの青年のままだ。

当時インド方面のトレッキングもしていたらしいが、話の中でどういう脈絡だったのか、その頃始まったNASAのヴィーナス計画を話題にし、「行きたいところは金星」と真面目な顔で言っていた。若かった自分やヨメさんをからかったのだろうが。

第5章の出だしにこんなことが書かれている。「この世の縁は不思議ではない。自分で無意識のうちにそれを選択しているように思う。(中略)南国土佐、物理、黒部、雪、冬、私はこういう縁を選びたがっているように見える。」そういうことだとすれば、和田さんと私は無意識のうちに「物理」というキーワードで、極小さくはあるがひとときの縁を結んでいたことになるかもしれない。

わずか数度の機会とはいえ、自分の人生とはまったく別次元を生きる名ある登山家と時空を共にし杯を交わせることの幸せを、学生だった当時の自分に分かろうはずも無かった。
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異次元仮想体験 雪山へ
2014-12-03 Wed 00:00
この十日ほど、雪山登山の本を読んでいた。冬劔、雪黒部、劔沢大滝、ヒマラヤ高峰、ランタン・リルンやナンガ・パルバットといった、生まれ変わったとしても自分が行くことはないだろう別次元の世界を垣間見せてもらった。この本『劔沢幻視行』についてはもう少し書きたいと思う。

1411291.jpg
[写真は大阪市立大学山岳会ホームページ「ランタンリルン登山報告」より]

今夜の観測:RX Lep6.0等。
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ユリちゃんと天体観測所
2014-11-18 Tue 00:00
大学の同窓会報が届いた。1月に逝去された恩師への追悼記事が載っていた。当時助教授だったその先生のことを私たち学生は最愛の情(?)を込めて「ユリちゃん」と呼んでいた。お名前の百合夫の愛称だ。ユリちゃんの講義はユニークだった。講義に使う図は全て模造紙に手描きされた美しいカラー図であった。何十年同じ模造紙を使って来たのだろう、至る所に破れを補修した跡がある。現在のようなプロジェクター時代だったらどうしただろうか、いやいや考えるまでもない、ユリちゃんのことだから相変わらず模造紙を使い続けたはずだ。

1410291.jpgユリちゃんの退官が目前に迫っていたため、光栄にも私たちは講義を聴けた最後の学年になった。私は1年間の講義の板書、実習材料リスト、試験問題などを『ユリちゃんの○○学総論 最終講義』と題して、手縫い製本して今も保存してある。久しぶりにぱらぱらと読み返して、学生を困らせるときのユリちゃんのイジワルな、それでいて分かる者には分かるユーモア溢れる口調が蘇って来て笑ってしまった。

追悼文の中に、定年近くになって自家用車が高く売れたので駐車スペースに天体観測所を作ったとか、構内で拾って来た塩ビ管で望遠鏡を作ったり、張りぼての天球儀も作っていたなどといったエピソードが書かれていた。当時の自分は天文空白時代だったとは言え、ユリちゃんと星の話をする機会がなかったことは大いに悔やまれる。

「私が100知っている。みなさんは1か2知っている。しかし、chaosの前にはどちらも同じことです。」ユリちゃんは謙虚なお言葉で最終講義を終えられた。ご冥福をお祈りする。
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遊郭の雰囲気を体験できる街
2012-12-14 Fri 00:00
・戦前の和風建築巡ろう 18日、旧遊郭街を見学 大阪
121212.jpg 大阪の旧遊郭街、飛田新地に残る歴史的建物の見学会が開かれるらしい。

 この記事にある百番という店は、私が大阪市立大の学生だった頃にはすでに庶民的な料亭になっていて、超高エネルギー研究室のコンパで何度か行ったことがある。建物の中には遊郭時代の調度品などが残っていて、ちょっと他では味わえない雰囲気が漂う空間だ。飛田地区の百番以外の店は当時も風俗営業をしていたので、大門から入り中の通りを歩いていると両側の店の暖簾の向こうからやり手ばばに呼びかけられたりもした。健全な心持ちでこういう場へ踏み込める希有な場所だったと思う。
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30年前の大阪からとんぼ返り
2011-02-07 Mon 00:00
110205.jpg土曜日の夜、大阪西天満で大学時代のクラブの集まりがあった。当時の監督(みな師匠と呼んでいる)の傘寿のお祝いを兼ねての集まりという事だが、師匠は30年前とほとんどお変わりなかった。先輩たちもあまり変わっていなかったが、むしろ後輩らの方が変化幅が大きく感じた。同期は半々というところ。
朝練や部室での泊まり当番、部の維持費捻出のために強制的に行かされたバイト、お尻から血の出る夏合宿、雑草の生える季節には夕方になるとドンゴロスいっぱいの草刈り、試合となれば下級生は使役へ駆り出された。それでも先輩にはほんとうにかわいがってもらった感が強い。その後の人生で、転職のあげくそのときの経験が巡り巡って今の仕事になってしまったのだから、わずか1年しか在籍しなかったとはいえなんと濃密な時間であった事かと思う。そんな生活をしていたため、高校まで好きだった星のことはすっかり忘れてしまった。
思い出話は尽きなかったが、日曜日午前中の仕事に間に合うように夜行バス「よかっぺ号」で朝帰り。
[写真:中之島から淀屋橋を見る]

今夜は久しぶりにまとまった雨が降っている。
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『復活!TK-80』
2010-07-13 Tue 00:00
大学の大型計算機センターへ行って、カードパンチャーが空くのを待ち、自分がプログラムしたコーディング用紙を見ながらパンチカードへ入力し、オペレーター氏にカードストックを預けて帰る。昼飯を食べ終わったころセンターへ行ってみると結果が出力されている。ひぇ~!今回もバグのため出力紙数枚を無駄にしただけで成果無し。もう一度プログラミングからやり直しだ。少ない機材とマシンパワーをみんなでタイムシェアリングしていた時代、わずかに割り当てられたマシンタイムはとても貴重だったし、そもそも計算機を利用する研究室にでも所属していなければ個人が計算機と接する機会など全くなかった時代だった。三十数年前のことだ。

1007122.jpgそんなときに目の前に現れたのがNECのマイクロコンピュータ・トレーニングキットTK-80だった。幸いこの時期はアルバイトで資金に余裕があったので、さっそく飛びついた。1977年だった。ちなみにApple][が発売されたのも同年。宇宙開発だけでなくここでも日米の技術の時間的ギャップを感じざるを得ない。ワンボードのTK-80に大型計算機の代わりができるはずは無いのだが、誰に気兼ねすること無くすべてのマシンタイムを自由に使える自分のコンピュータを手に入れた満足感は格別で、新しい時代の到来を実感する瞬間でもあった。

100712.jpgそうは言ってもTK-80は簡単に使いこなせる代物ではなかった。しかし、添付されていたマニュアルは、自力で学ぼうという意欲のある者には、かなり分かりやすい内容だったと今から振り返ってそう感じる。さらに、当時出版された『マイコンゲーム21』(岸田孝一著 産報出版 1978年)も実に分かりやすく、TK-80やマシン語との距離をぐんと縮めてくれた。

2000年に出た『復活!TK-80』というTK-80シミュレータ付属の本を懐かしく読んだ。今更マシン語でもないが、TK-80に久しぶりに触れられるのは楽しみだ。「プログラムのコーディングよりも、この基板ビットマップ作成のほうがはるかに時間がかかっている。TK-80を知る世代の友人も、シミュレータそのものより、このビットマップに感激してくれているのが嬉しい。」と著者は書いているが、Macベースで作成していたら真に美しい仕上がりになったはずで、その点がちょっと残念な気がした。

 →『復活!TK-80』 榊正憲著 アスキー出版局 2480円 2000年
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ウゴウゴルーガを覚えていますか?
2010-07-04 Sun 00:00
1005103.jpgこの前エルニーニョの海水温図をシュールくんの顔の様と書いたのがトリガーになって、あの番組をまた見たくなってしまった。

『ウゴウゴルーガ』、覚えていますか。1992年10月から1994年3月まで放送されたフジテレビの朝の子供番組で、CGをふんだんに使った実験的試みの番組(だったように思う)。子供番組とはいいながら、当時9歳前後だったウゴウゴくん、ルーガちゃんとスタッフが演じるテレビくんやシュールくん、トマトちゃんなどの様々なキャラとの言葉による掛け合い、そしてその絶妙な間は、子供よりもむしろ大人に受けたのではないかと思っている。

照れ屋のウゴウゴくんは地味なキャラではあったが、それがインディペンデントなルーガちゃんの魅力を大いに引き出していたことに今改めて気づかされる。

バブル崩壊直後の、社会の気分はまだ右肩上がりの時代を映している番組だったのかもしれない。
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『瀧口先生の「滝口入道」』を読んで、書き留めておきたいこと
2010-05-07 Fri 00:00
『週刊朝日』(2010年4月23日号)「週刊図書館忘れられない一冊」にノンフィクション作家の一志治夫氏が『瀧口先生の「滝口入道」』という短いエッセイを寄せていた(→転載)。教育に情熱を傾ける高校時代の担任とそれに応えることの無かった自分たち生徒との温度差について、当時のエピソードを交えて語られていた。これを読んだとき僕の記憶の中からも甦る風景があった。

1972年9月29日の日中国交正常化の1週間ほど後のホームルームのときだったと思うが、「君たちはTのこと、なんとも思わないのか。同級生の母国と日本が国交断絶したというのに、Tのことが心配にならないのか」、瀧口道生先生は唐突にそう話し始めた。Tの親が中華民国出身だと言う事は知っていたが、凡庸な僕には日中国交正常化のニュースと、いつもおちゃらけている同級生とを同じコンテキストの中で捉える力は無かった。泣きそうな表情で生徒に訴えかける瀧口先生を見て、「しまった」と自分の不明を恥じるのが精一杯だった。

100505.jpg秋の記念祭(文化祭のこと)の最終日、片付けが終わった後、瀧口先生と僕たちクラスメートは吉祥寺の井の頭公園へ繰り出した。そこで何をして時間をつぶしたのかあまり覚えていないのだが、最後に公園の野外音楽堂のステージへ一志も僕もみんなで上がって瀧口先生を真ん中に、岡林信康の「友よ」を合唱した。1972年秋の一夜の事だ。

僕たちが3年生になった春、瀧口先生は3年間勤めた僕たちの高校を退職し1年後に国立大学医学部へ入られた。今も、井の頭公園の野外音楽堂の前を通るたびに、岡林の歌と幼すぎた16歳の僕たちの姿がアンバランスな風景のまま甦ってくる。

[野外音楽堂の写真はネット上の写真をお借りした]
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「外を走れない」は言い訳にならない?
2009-07-15 Wed 00:47
この前kawashimaさんの『まどぎわ観望日記』で自転車の室内トレーナーのことが話題になり「かすてんさん、そんなすごい物をお持ちとは、ひょっとして競輪選手ですか(^^)」と言われたので続きをこちらに書く事にする。

もちろん競輪選手ではないがかなり走っていた時期があった。東京郊外に暮らしていた20年ほど前、約8kmの距離にあった大学への通学はバス-JR-バスと交通費も時間もラッシュも馬鹿にならなかったのでロードレーサーにした。それに当時は今ほど雨が多くなかったし。毎日15kmくらい走っていると自然と心肺機能、持久力、脚力が付いて来る。090714.jpg休みの日には朝早くに武蔵野の自宅を出て、100kmコースとしては多摩川まで南下し堤防上を日野橋まで行き八王子-高尾-小仏峠-相模湖-津久井湖-高尾-八王子-日野橋のコース、150kmコースは玉川上水沿い-拝島-青梅-奥多摩-奥多摩湖-五日市-拝島のコース、210kmコースは多摩川土手へ出て-日野橋-高尾-津久井湖-道志みち-山中湖往復などなど[左図]。夏の一月に1800km走ったことも。ところがその後パタッと乗らない生活スタイルになり、心肺機能、持久力、脚力すべてが退化、今じゃ大腿四頭筋は痩せてお腹は反対に太ってしまった。以上、今は昔の夢物語。

血統的に細身の体型のため肥満なんて考えた事もなかったし自転車に乗っていた頃は体脂肪率11%くらいだったのだが、乗らなくなったリバウンドなのか年々上昇するコレステロールと中性脂肪、これはきっと運動不足によって内臓脂肪がコテコテになってきているからに違いない。

0907063.jpgそれで、できそうなことから始めなくてはと思うが、なかなか毎日自転車に乗るというわけにはいかないので、休日に外で乗ることにして、平日は古いロードレーサーにトレーナーを装着して職場に置き空いた時間に漕ぐことにした。ところがこれがはっきり言ってつまらない。外ならば数時間走っても飽きないのに、室内では10分も耐えられない。こんな事では秋の検査の結果が不安。7月も半月食い込んでしまったが修行と思って漕ぐ事にしよう。でも今日は空気を入れるだけで汗びっしょりになったので漕ぐのは明日から。
[写真は20年ほど前に使っていたバイク+室内トレーナー]

ま、そんなにバリバリ走らなくても街暮らしには自転車がなんといっても便利。ときどき遠乗りしたり輪行したりコンスタントに乗っているkawashimaさんの自転車ライフが理想的だと思う。
関東の梅雨が明けた。夜空の雲は明けるのか?
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1997年3月9日の日食の記録
2009-07-13 Mon 00:51
090712.jpgヨメさんが日記を見ながら「初めて見た日食は1997年だった」と言っている。そういえば今の職場へ来て数年後、仕事中にピンホールや木漏れ日で日食を見た記憶が戻ってきた。写真はヨメさんの日記に描かれていたスケッチ。へなちょこ画でもこうして残しておくのは良い事だ。
因にこの頃は早朝4:45起きでヘール・ボップ彗星を観望をしていた時期でもあった。
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手塚治虫氏との接近遭遇
2009-05-05 Tue 00:51
1982年8月のお盆過ぎのある日、私と嫁さんは大阪発日向行きの夜行フェリーで瀬戸内海を宮崎へ向かっていた。船内で迎えた朝、レストランで朝食をしていたときにふと斜め向こうの席に座る紳士に目が止まった。!!!て、て、手塚治虫さんだ!!!今なら別の行動に出たはずだが、当時は食事の手を休める暇に時々そちらをちらっと眺めるだけが精一杯だった。「サインをもらっておけばお宝だったね」と嫁さんに言うと、「ゆくりできることなんて無かったはずだから周りに誰もいなかったのは良かったのじゃないの」とクールに言う。これは良い考え方だ。そんな貴重なひとときを私達が差し上げられたという気分を頂いたという思い出になった。

0905034.jpg 昭和30年代初期生まれの私たちは『鉄腕アトム』にしろ、『火の鳥』にしろリアルタイムでメッセージを受け取った世代だ。特に『月刊COM』で連載が始まった『火の鳥』からは宇宙感覚、時間感覚、生命感覚などその後の生き方や価値観に関わるような部分で影響を受けた。これについてはいつか書きたいと思っている。
[小学校以来40年ぶりに描いた鉄腕アトム:小学校時代の方が断然巧かったな]

江戸東京博物館 特別展 手塚治虫展 行かなくっちゃ。
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古い手帳から しし座流星群観望メモ
2008-07-20 Sun 21:48
0111191.jpgヘール・ボップ彗星のメモがたくさん残っていたのに気を良くして、しし座流星群のメモも探してみた。ところが、わずかにこれだけ。2001年は流星雨を体験したと言うのにそのときはあまり実感が無かったと見える。

1998年 11月18日
  02時30分~3時10分 城跡
  03時40分~5時10分 湖畔
  予想ほどには出現せず。しかし、火球、流星痕を見る。
2001年 11月19日
  02時00分~03時30分
  向かいの畑のサツマイモのつるの上にマットを敷いて寝袋に入って。
  03時頃が多かったかな。30個/分を数えた時もある。
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コペルニクスの街Torun(トルニ)
2008-07-10 Thu 00:04
 昨年は初めて水星を双眼鏡で見、今年の1月には肉眼でも確認して「コペルニクスを越えた?」宣言を出したが、そのコペルニクスに20年程前に会って来たことをふと思い出した。
toruni01.jpg 1987年7月、詳細は略すが、その数年前から文通をしていたポーランドのInowroclaw(イノブロツワフ)に住む同世代のZbigniew Malecki(ズビグニエフ マウェツキ)のところへ遊びに行ったことがあり、その彼が中世城塞都市Torun(トルニ)を案内してくれた。toruni02.jpg東欧の都市らしい色彩の美しい街だった。
 ポーランドが生んだ世界的に有名な人物は多いがコペルニクスもそのうちの一人。ポーランドは中世以降たびたび国土が分割され国が無くなっていた時期があり、トルニがドイツ領だった時代もあるためコペルニクスはドイツ人という人もいるが、トルニ生まれだからポーランド人ということで良いと思う。
toruni04.jpg 左写真は市庁舎前に立っている有名な銅像。それから博物館になっているコペルニクスの生家を目指したが、なんと休館日。虚しく入り口の写真だけ撮ってきた。その頃は星から離れていた時期だったのであっさり諦めたが、今ならばどうしただろうか。toruni05.jpg
 私が訪ねた10年後に当たる1997年、第2次世界大戦でナチスに破壊されなかったトルニの旧市街は世界遺産に登録されたそうだ。
★★
 それから、今もズビグニエフはもちろん元気にしているが最近の文通はもっぱら息子のMichal(ミーハウ)と行っている。彼は当時まだ幼稚園くらいだったが、いまでは立派な青年になって、趣味の写真で素敵な作品を公開している。みなさんにもぜひご覧になって欲しい。→『mammal's photostream』
 もし感想を頂けたらポーランド語もどきに訳してミーハウへ送りたいと思います。
【参考:ポーランド語のアルファベットには特殊記号があるので正確に表記できず、英語表記してあります。表記と読みが異なるのはそのためです。カタカナ表記の方はポーランド語の発音に近いです。】
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古い手帳から ヘール・ボップ彗星観望メモ
2008-06-25 Wed 21:11
070116.jpg昔の手帳をめくっていたら、97年のヘール・ボップ彗星のときのメモ書きがあった。星から離れていた時期にこんなに何日にも渉って観測し続けていたことをすっかり忘れていた。記録を読み返すって楽しいもんだ。

1997年
3月 5日04時45分 白鳥座デネブと地平線との中間にデネブと同じ位の星。
   6日04時45分 昨日よりも曇り気味。写真を数枚。取水口近くまで行ってみる。
   9日04時45分 肉眼でも淡い尾が明らか。取水口。
  10日04時00分~05時00分 堤防。一番シーイング良い。夏の銀河が見える。NikonF401巻き取り不可に。
  11日04時45分 空が明るくなっているようだ。双眼鏡で見ただけ。
  12日04時00分 うす曇り。でも、写真を撮りに行く。
  13日04時00分 うす曇り。写真。
  24日19時00分 夕方、快晴。しかし、満月の月明かりと土浦の光が強い。
4月 1日20時00分 雲多し。3枚。近日点。
  10日20時00分 快晴だが、春霞の中でシーイング不良。月明かりもある。
  12日19時45分 快晴。月明かり。
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ヘール・ボップ彗星と百武彗星の思い出
2008-04-17 Thu 00:11
070116.jpg C/1995 O1(ヘール・ボップ彗星)は太陽から25.7天文単位離れて明るさ20等でいまだに活動しているという記事がアストロアーツに載っていた(→記事へ)。ヘール・ボップ彗星は私が体験できた初めての彗星だった。1997年、それは天文から最も離れていた時期だったのだから幸運というか縁があったというかとにかく思いで深い。[左写真は霞ヶ浦湖畔で写したヘール・ボップ彗星]
ついでに前年の百武彗星のことも思い出した。
200px-Hyakutake.jpg 1996年春、日本人発見の大彗星の話題は天文から離れていた私の耳にも届いた。数年前に職を得て東京から茨城県土浦市へ移っていたが、百武彗星が現れたのはちょうど霞ヶ浦湖南に自分の家を建てている最中だった。まだ壁と屋根と床があるだけの受け渡し前の家の鍵を工務店から借りて寝袋持参で百武彗星を見に行く計画も立てた。ところがその時期は工事が度々中断するような雨天続きで結局百武彗星を見ることなく機会を逃してしまった。[右写真はWikipediaの百武彗星 (C/1996 B2)から]
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いつかここへ戻ってくるとは思っていた 天文復帰1周年
2008-01-15 Tue 00:19
080114.jpg 子供の頃からの天文趣味から離れたのは34年前に大学受験勉強を始めた頃だが、その後も「自分は将来のどこかの時点で星を見ることを再び趣味にするだろう」という思いは漠然と持ち続けていた。それならば、機材や書籍などの一切合切を保管しておけば良かったようなものだが、再び始める頃には時代も自分も変わっているだろうからそのときに新たに揃えようと当時のほとんどの物を処分した。今考えて、TS-50を手放したこと以外にはさして後悔はない(残っていればレトロな珍品としてヤフオクネタにできた物も若干あったかもしれないが)。
 当時の子供心としては、将来天文趣味を再開する頃には資金面で苦労することはないだろうと思っていたのだが、なんのことはない小遣い通帳を眺め眺めの生活は今も中学生時代とちっとも変わってない。[今日1月15日は、昨年友人がMcNought彗星のことを話題に出してくれた天文復帰記念日]
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乗鞍岳の思い出
2007-06-08 Fri 00:00
norikura.jpg カノープスさんのブログのコメントを読んで乗鞍岳のことを思い出した。

 大学受験・進学をきっかけに星を見る習慣は無くなったが天文への興味が同時に消えたわけではなかった。というよりもさらに基礎から宇宙の成り立ちを知りたいという好奇心から物理学科への進学を希望し、「宇宙」と関係ありそうな宇宙線物理学、超高エネルギー物理学で有名な大阪の公立大学を選んだ。
 卒業研究では北アルプス乗鞍岳(標高3026m)の山頂近くにある全国共同利用施設の東京大学宇宙線研究所乗鞍観測所へ何回か行った。すぐ近くには国立天文台乗鞍コロナ観測所もあったので、ちょっと見学させてもらえばよかったと今になって思う。気軽に行ける場所ではないので惜しいことをした。それどころかそのころ星見から遠ざかっていたため乗鞍での夜空の記憶がほとんど無い。なんとももったいない話だ。
 大学生活は楽しかったが、物理学的センスと能力の無さを自覚して大々的に方向転換。いまはまったく結びも付かない分野の仕事をしている。
[写真:宇宙線観測所全景と遠方にコロナ観測所を望む]
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空白の時代だったにもかかわらず
2007-03-04 Sun 00:42
 『星を見るための別荘』のカノープスさんから昨日の記事へ「天文ファンの見たいものベスト3をあげると、たいてい出てくるのが 1大彗星 2流星雨 3皆既日食 といったところだと思います。この10年で1と2を見ることを出来たのは本当にラッキーで幸せなことかなと思っています。」というコメントを頂いた。そう思って我が身を顧みると、大彗星(ヘールボップ彗星)と流星雨(2001年しし座流星雨)を体験しているではないか。それも天文空白時代に。皆既日食は事前に予定が立つが、大彗星と流星雨はまさに偶然との出会い。星を見続けているみなさんでもなかなか出会えない大イベントを体験できたことは本当に幸せなことだったと、カノープスさんのコメントを読んで改めて実感した。
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